「もう、行ってしまうのですね」
彼岸花はそう静かに呟きました。
「うん、もう行かなくちゃ」
旅の子は丘の上から見える地平線をまっすぐと見つめました。
銀色の髪の毛がさらさらと風に遊ばれて靡いています。
彼岸花はその背中を眺めながら、なぜだか胸にもやがかかっていくようでした。
「私無しで、これから一体どうするつもりです」
彼岸花はその言葉が、心なしか咎めるような口調になってしまったことに驚きました。
旅の子はゆっくりと振り返ると、穏やかな様子でポケットから小瓶を取り出しました。
親指ほどの小ぶりなガラス瓶の中で、水色に輝く液体が揺れているのが見えます。
「これがある」
「……それは?」
彼岸花が尋ねると、旅の子は小瓶を光に透かしてみせました。
「友達の死神がくれたんだ。
君の毒の数倍強い」
その言葉に、彼女の赤色の花びらが萎んでしまいます。
きっと用が済んだのだと彼岸花は思いました。
彼にとって、私はもう。
「でも……」
そんな様子を知ってか知らずか、旅の子は長いまつ毛を伏せました。
「これをくれた彼の具合いが気になってーー」
「具合い?」
うん、と旅の子は頷きました。
「あの子は眠りながら泣くんだよ。
うなされているみたいに、うわ言を呟くんだ。生きていて、ねえ、生きててよって……」
しばらく静寂が流れました。
草花が揺れる音だけが聞こえてきます。
空白の後、彼岸花はそっと口を開きました。
「その小瓶を本当は、渡したくなかったのでは?」
すると旅の子は優しく微笑みながら首を横に振りました。
「きっと、僕を生かそうと思ってこれをくれたんだよ。君が僕のそばにいてくれるのと同じようにね」
それを聞いて、彼岸花は頬が熱くなるような気がしました。
熱を逃がすように首を振って、少年の横顔を見つめ直します。
「私にも、それを分けてくださいませんか?」
僅かに縋るような声色で彼岸花が問いかけると、旅の子は一歩大きく前へ出て、彼岸花へと目線を合わせました。
「君への毒は、僕だ」
彼はいたずらっ子のような表情でそう言うと、ふわっと立ち上がりました。
檜のような香りがほのかに漂います。
澄んだ森みたいで大好きな匂いでした。
ーーああ、待って。
花はまだ何も伝えられていないような気がしました。
言わなくてはいけないことが、本当にたくさんあったのです。
ですが正しい言葉は見つからず、彼岸花は迷いました。
それでもたぶん、彼が自分へかけた言葉は毒にはならないだろうと密かに思いました。
「ねえ、待っていて」
背中の向こうで、旅の子がぽつりとこぼしました。
「君がここで待っていてくれるなら、僕はきっと、この小瓶を使わずに済むよ……」
その言葉の端が心なしか震えていたことに、彼岸花は少し安心しました。
「……ええ、きっと綺麗に咲いていますとも」
それから、花は小さく呟きました。
「行ってらっしゃい」
旅の子は再び真っ直ぐと行き先を見据えました。
瞳に微かに水の膜が張っていくのを、彼女には悟られたくありませんでした。
「行ってきます」
風が穏やかに前へと流れていきました。
沈みかけた夕陽が空を暖かく燃やしています。
その景色の先に終わりがあることは、彼らにとって必ずしも怖いことではありませんでした。
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